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藩から派遣された「上置(うわおき)」
藩主島津家久の実子である北郷久直が都城領主に就任し、寛永11年(1634)10月、都城に入部するときに、「惣奉行(そうぶぎょう)」として喜入休右衛門が従ってきました。
惣奉行は、喜入に代わって相良杢之助が就任するときには、その名称が「上置」(うわおき)になっています。後には、この役職の系統を引く「中抑」(なかおさえ)という役職も置かれるようになります。
惣奉行・上置は同様の役割を担っていました。寛永14年(1637)9月19日付けの藩家老島津久元の「覚書」が、上置を設置した意義についても述べています。
それによると、三原次郎左衛門重貞が、寛永14年8月に上置に就任しています。上置は領主久直の後見のために置くとし、すべて彼と話し合うようにと鹿児島藩が指示しているのです。また何ごとも三原と家老衆に伝え、領内の小役人には家老から伝えるようにとしています。
このように上置は領主の後見役(こうけんやく)であり、久直の政務の相談役・後ろ盾でした。そして、上置は家久の意思を推戴して、その意思を都城へ伝える役目を有していました。つまり、上置は都城領に対する鹿児島からの監視役であるとともに、都城領政指導の役割をも担っていたのです。