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北郷忠相の盆地統一

記事ID:9100 更新日:2020年3月8日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

鉄錆地南蛮胴具足の画像8代北郷忠相(ほんごうただすけ)は、文明(ぶんめい)19年(1487)に生まれました。7代島津数久(かずひさ)の長男で、母は島津豊州家の人でした。

北郷氏は、初代資忠(すけただ)のときに都城盆地に進出してきましたが、なかなか都城盆地全体を治めることができませんでした。この忠相は、北郷家の念願だった都城盆地の統一を成し遂げた人です。

忠相が、父の後を継いだ永正(えいしょう)14年(1517)頃、北郷氏が治めていたのは、都城・安永城・山田城の3城に過ぎませんでした。周囲には伊東氏・北原氏・新納(にいろ)氏という力のある武将がいて、忠相は安らぐひまがなかったのです。

こうした状況の中で、忠相は島津本家と協力しながら、都城盆地の統一に乗り出しました。そして、大永(だいえい)~天文(てんぶん)年間(1521~55)に周囲の領主たちと戦い、ついに野々三谷(ののみたに)・高城(たかじょう)・勝岡・山之口・梶山(かじやま)・梅北・山田・財部(たからべ)・岩川(いわがわ)などをおさえ、都城盆地を平定しました。

天文7年(1538)、忠相は都城を長男忠親(ただちか)にゆずり、自分は高城(月山日和城)に移り、高称寺(こうしょうじ)を和田に再建移築、穂満坊(ほまんぼう)に諏訪(すわ)神社をつくりました。また、大井手の春日神社を修復し、山之口の的野八幡(まとのはちまん)社を復興しています。

以後、永禄(えいろく)2年(1559)11月16日に亡くなるまで、高城で過ごしました。

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