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豊臣政権と都城
戦国の世を統一した豊臣秀吉は、全国の大名に対して、戦いをやめるように命令しました。
しかし、島津氏はそれに従わなかったため、秀吉に攻められ、天正15年(1587)に降伏します。
都城領主の北郷氏(のちの都城島津氏)は、はじめは独自に抵抗しましたが、耐え切れずに同じく降伏しました。そして、秀吉に人質を出すことを条件に、都城の領主として認められたのです。
ところが、文禄(ぶんろく)4年の太閤検地(たいこうけんち)後、北郷氏は祁答院(けどういん 鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市の一部)に移されてしまいました。
実は、秀吉は島津氏の政治体制について、島津本家を中心とする統一された体制を考えていたのです。そこで、力をもつ武士をその領地や家来から切り離すことで、力を弱めようとしました。
そして、都城には新たに伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)が領主としてやってくることになりました。