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令和7年度都城島津伝承館特別展展示史料解説

記事ID:79849 更新日:2025年10月10日更新 印刷ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示

展示史料解説

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1 日本における怪異・妖怪現象

2 人と怪異の結びつきー政治・文化への影響-

3 南九州における怪異譚

4 島津領内における怪異の受容と文化・領政への反映

史料解説

1 日本における怪異・妖怪現象

付喪神

付喪神(つくもがみ)とは長い年月を経て道具に宿った霊魂(精霊)である。

日本では古来より、動物や無機物など万物に霊魂が宿るという考え方が根付いており、付喪神の存在もそうしたアニミズム(※)的思想が反映されているとされる。

室町時代に制作された『付喪神絵巻』には、道具の霊魂は100年経つと神秘的な能力を手に入れると語られている。本絵巻では、100年経つ前に捨てられた道具たちが人間への復讐を思い立ちやがて鬼になるが護法(ごほう)童子(どうじ)に敗れて降伏、最終的に仏教修行を経て成仏(じょうぶつ)する物語が描かれている。付喪神が鬼になる展開は、古代において鬼が“悪しき霊魂の総称”としての役割を持っていたことが大きく関係していることが指摘されている。

(※)アニミズム…自然界のあらゆる物事に霊魂・精霊が宿るとする信仰や思想。

[水木しげる作複製原画] 縦29.7cm 横42.0cm  【全期展示】

水木しげるが手掛けた妖怪画の複製。水木しげるの妖怪画は、水彩で彩色されている。

水木しげる(みずき・しげる)

大正11年(1922)3月8日生まれ。鳥取県境港市で幼少期を過ごす。家の手伝いに来ていた景山ふさ( “のんのんばあ”)から影響を受け、妖怪の世界に関心を抱く。昭和18年(1943)にラバウルに出征。現地で爆撃を受け左腕を失うも、昭和21年(1946)3月に帰還。戦後、紙芝居作家として画業をスタートし、昭和33年(1958)漫画家としてデビュー。代表作に「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「決定版 日本妖怪大全」などがある。平成27年(2015)11月30日逝去。

2 人と怪異の結びつきー政治・文化への影響-

看聞日記 嘉吉3年自7月至8月

  • 縦26.2cm
  • 横18.3cm
  • 江戸時代
  • 国立公文書館所蔵
  • 前期展示

室町時代前期の後崇光院(1372~1456)による日記。応永23年(1416)1月1日~文安5年(1448年)4月7日の記事から成る(一部欠)。政治や経済、文化など取り上げられる話題は多岐に渡っており、当時の歴史研究を行う上で貴重な史料である。展示箇所は嘉吉3年8月13日「管領厩馬物言」の項で、厩(うまや)で飼育している馬が人語を発した出来事について記されている。馬が口を利く現象は「看聞日記」以外にも度々記録されている。こうした怪異は後の災害や病の流行などといった凶事の前触れとして発生する場合が多く、当時の社会的事象と怪異との関係性が窺える。

 続日本紀 巻34

  • 縦30.9cm
  • 横22.5c
  • 江戸前期・慶長19年(1614)
  • 国立公文書館所蔵
  • 後期展示

『続日本紀』は、『日本書紀』に続く勅撰の歴史書。全40巻から成り、文武天皇が即位する文武元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)12月までを、編年体で記述する。延暦16年(797)成立。前半20巻を菅野真道(すがののまみち)(741~814)らが、後半20巻を藤原継縄らが編さんしたと伝えられる。奈良時代の根本史料として重視されている。

展示箇所は宝亀8年(777)3月辛未の項であり、宮中で頻(しき)りに“妖恠(ようかい)”が有るため大祓(おおはらえ)の儀式を行ったと記されている。本項は我が国における「妖怪」という表記の初出であり、当時の人々の怪異現象に対する国家的対策の様相が窺える史料である。

列朝制度 巻之三十九 下

  • 縦25.2cm
  • 横17.0cm
  • 江戸後期
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

『列朝制度』は、鹿児島藩の政治・経済・地理・歴史・天文・宗教・儀礼など、多岐にわたる分野の規制法令や統計資料をまとめたもの。原本は幕末期に亡失したが、写本が都城島津家、東京大学史料編纂所、鹿児島大学附属図書館玉里(たまざと)文庫、鹿児島県立図書館に収蔵されている。

展示箇所は「陰陽(おんみょう)・巫祝(ふしゅく)」に関する項。寛政3年(1791)に江戸幕府から出された御触れで、これによると、陰陽道を職業とする者は土御門家(つちみかどけ)が支配するべきであるが、近年その決まりが乱れている。みだりに陰陽道を行う輩もあるとの話も聞いているので、これ以降は陰陽道の心得を違えることなく、土御門家から免許を受けて執り行うよう申し渡している。土御門家は陰陽道・天文・暦を司り朝廷に仕えた公家で、平安中期の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする。

平家物語 巻三

  • 縦22.6cm
  • 横18.5cm
  • 江戸時代
  • 国立公文書館所蔵
  • 全期展示

平家物語は、鎌倉時代前期に成立した軍記物語。平清盛(1118~1181)をはじめとする平家一門の隆盛と衰退を描く。作者及び成立年の詳細は明らかでない。多くの異本が存在しており、現在伝来している諸本は、琵琶法師が寺社を拠点として結成した当道座(盲人たちの職能自治組織)が語りの本文として定めた当道系語り本と非当道系読み本に分かれる。本史料は前者に分類される。

展示は「赦文(ゆるしぶみ)」の箇所。治承2年(1178)正月、平清盛の娘であり高倉天皇の中宮・建礼門院(平徳子)が懐妊し、一門の者たちは喜び皇子の誕生を期待していた。しかし月が経つにつれて中宮の体調は悪化していき、遂には頭を上げるのもやっとという有様になってしまった。この状況を受け占いを行ったところ、多くの怨霊や生霊が中宮に取りついていることが分かった。清盛は即座に対策を講じ、怨霊と化した霊魂を鎮めるために贈官贈位等を行い、また鬼界ヶ島の流人たちに対しては恩赦を与え呼び戻した。古代において怨霊・生霊の存在は大きな意味を持ち、時に社会的に大きな出来事を引き起こす要因となった。本史料は、古代における怨霊思想の在り方が反映された物語である。

康成妖怪調伏之図

  • 縦37.9cm
  • 横75.0cm
  • 江戸末期・19世紀
  • 国立歴史民俗博物館所蔵
  • 前期展示

玉藻前伝説を題材にした浮世絵。玉藻前の正体は金毛九尾の狐の化身であり、天竺(インド)や中国で王を惑わし国を破滅に追い込んだ果てに日本へ渡来したとされる。絶世の美女という玉藻前の評判を耳にした鳥羽上皇は側女とするが、次第に正気を失っていく。上皇を案じる家臣たちは陰陽師・安倍康成に占いを依頼し、康成に正体を見破られた玉藻前は狐の姿を現し下野国那須野(栃木県北東部の平野)に逃れていった。その後、武士の上総広常(?~1183)と三浦義澄(1127~1200)によって討伐されるが、その霊魂は石に変じて近づく生き物を全て殺めたという。玉藻前伝説は、中世において謡曲「殺生石」で広く普及し、御伽草子「玉藻の草子」や絵巻物、小説などの様々な創作物の題材となった。島津家文書「玉藻前」の物語と大筋は同じながら、正体判明後の展開が異なっている。

本作は陰陽師・安倍康成に正体を見破られた玉藻前が、本来の姿を現して逃げ去る場面を臨場感豊かに描いている。作者の歌川重宣(うたがわしげのぶ)(1826~1869)は初代歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)(1797~1858)の門人。安政5年(1858)に初代広重が没すると、翌6年(1859)二代目広重を襲名した。初代の画風に倣って風景画や美人画を得意とした。

 国宝 今昔物語集(鈴鹿本)巻27

  • 縦32.4cm
  • 横28.0cm
  • 平安時代末期~鎌倉時代初期
  • 京都大学附属図書館所蔵
  • 後期展示

『今昔物語集』は平安後期の説話集。12世紀初頭に成立したとされている。全31巻のうち28巻が現存している。作者については諸説あるが未詳。1000余りの説話が天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の3部に分けて収められている。各説話は基本的に、「今ハ昔」という言葉から始まり「トナム語リ伝ヘタルトヤ」で終わるという基本形式に則って記されている。収録内容は主に仏教史の世界を描く説話と俗世界を描く説話とに分かれ、巻27は後者にあたる。

展示箇所は「在原業平中将女被噉鬼語」(在原業平の女が鬼に食われた話)。右近の中将在原業平は美しいと評判の娘に想いを寄せるが、娘の両親は「高貴な方を婿に迎える」と言って大切にしていたためどうしようもなかった。或る時、どのようにしてか娘を盗み出し、北山科(現在の京都市山科区北部)辺りにある荒れた古山荘のあぜ倉に隠れた。すると稲妻と雷鳴が轟いたので、中将は娘を倉の奥に隠し太刀を構えた。やがて雷は止み夜が明けたが、娘が何の物音も立てなかったので不思議に思い振り返ると、娘の頭と着物だけが残されていた。逃げ帰った中将が後から知ったことには、その倉は「人を食らう倉“だという。その夜の稲妻や雷鳴は全て倉に住まう鬼の仕業であった。本説話は、「よく知らない場所には決して立ち入ってはならない」という教訓的な結びとなっている。

 国宝 島津家文書「玉藻前」

  • 縦23.5cm
  • 横32.6cm
  • 江戸時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 上巻:前期展示
  • 下巻:後期展示

本作は奈良時代末期から江戸時代前期にかけて制作された絵入りの彩色写本「奈良絵本」の一例で、平安時代末期に鳥羽上皇(1103~1156)の寵愛を受けたとされる伝説上の人物・玉藻前を題材としている。物語のあらすじは次のとおり。

近衛天皇の治世、鳥羽院の御所に化女があらわれ、院の寵愛を得た。大変な美貌を持った才女であり、彼女に物事を尋ねて知らぬことはなかった。管絃の御会で身体から光を放ち、「玉藻の前」と呼ばれた。そうしたところ天皇が病となり、陰陽頭が占ったところ下野国那須野の古狐の化身である玉藻の仕業であると判明した。そこで玉藻に太山府君祭の幣取をさせると、祭文(さいもん)の途中で姿を消した。討伐の命を受けた武士の上総介と三浦介が那須野へ狩りに向い双尾の狐を見つけるが捉えられず、一度帰国して出直した後にも取り逃がす状況であった。ある夜、両名の夢に若い女が現れ守り神となることを申し出るが断り、翌日ようやく仕留めることが出来た。狐の体内からは金壷や剣などが出でて、各人に分配されるほか、宝蔵に閉じ込められたという。なお、この時の狐狩りが後の犬追物(いぬおうもの)の発祥となったと伝えられている。

宇治拾遺物語

  • 江戸初期
  • 都城島津邸所蔵
  • 巻一、三、四:前期展示
  • 巻十一、十二、十四:後期展示

宇治拾遺物語とは、鎌倉初期に成立した説話集。15巻から成る。編者未詳。貴族・仏教・民間にまつわる民話197話が収録されている。「今昔物語集」「古事談」等に同文・類似の説話が含まれている。

巻一
  • 縦22.5cm
  • 横15.9cm

第十七話「修行者、百鬼夜行にあふ事」

今は昔、ある修行者が摂津国(現・大阪府北中部の大半及び兵庫県南東部)へ行ったところ日が暮れてしまい、やむを得ず龍泉寺という人の住んでいない古寺に泊まることにした。堂内で不動明王の呪文を唱えていると大勢の声が聞こえ、不気味な見た目の者たちが入ってきた。各々が自分の座に就いたが、そのうちの一つは修行者が既に座っているため場所が足りなくなった。座り損ねた一人によって修行者はお堂の軒下へと移された。ほどなくしてその者たちが去り、夜が明けてから修行者が周囲を見渡すと寺は無く、通って来たはずの道も消えていた。困惑していると、大勢の供を連れて馬に乗った人々にたまたま出会った。修行者が「ここはどこか」と尋ねると、肥前国(現・佐賀県及び長崎県)とのことであった。その後、道がある所までついて行った修験者は京までの道を教えてもらい、船便で京へ上った。上京後、修行者は仲間にその出来事を話して聞かせたという。

巻三
  • 縦22.6cm
  • 横16.1cm

第二十話「狐、家に火つくる事」

今は昔、甲斐国(現・山梨県)の国司・郡司などの官舎に仕えていた武士が、或る夕暮れ時に館を出て自宅へ向かう途中、狐に出会い追いかけて矢を射かけた。矢は狐の腰に命中し、狐は鳴き苦しみながら草むらに逃れた。武士は狐を追いかけて再び矢を射かけようとするが見失ってしまった。家の近くまで行くと、先ほどの狐が火を加えて走っていくのが見えたので後を追ったところ、狐は人の姿に化けて家に火をつけた。武士は馬を走らせ矢を射ろうとするが、元の姿に戻った狐は草の中に紛れて姿をくらました。狐のような動物でもたちまち仇を返すので、決して馬鹿にしてはならない。

巻四
  • 縦22.7cm
  • 横16.0cm

第一話「狐、人に憑(つ)きてしとぎ食ふ事」

昔、ある人に物の怪が憑いたので女に一時的に霊をのり移らせたところ、物の怪いわく「自分は祟りをなす物の怪ではない。放浪して通りかかった狐である。自分の家には子供などがいて物を欲しがるため、こんな所には食べ物が散らばっていると思い、やって来た。しとぎ(米の粉で作った餅)を食べて帰るとしよう」とのことであった。そこでお盆いっぱいのしとぎを用意すると、「うまい、うまい」と食べた。人々は、その女がしとぎを食べたいがために物の怪が憑いたように偽っているのだと憎々しく思った。やがて女は「紙をいただいてこれを包んで帰り、年寄りや子どもに食べさせよう」と言うので、包んで持たせた。女は修験者に「私を追ってください、帰りましょう」と言って立ち上がった後、うつぶせに倒れた。まもなく起き上がったが、女が懐にしまった包みは見当たらない。無くなってしまったのは不思議な事である。

巻十一
  • 縦22.7cm
  • 横15.9cm

第三話「晴明、蛙殺す事」

ある時、安倍晴明が広沢の僧正(宇多天皇の皇子・敦実親王の子)の屋敷を訪ねていった際、若い僧たちが晴明に「あなたは式神(※)をお使いになるということですが、たちまちのうちに人を殺すことができるのですか」と尋ねてきた。晴明は「たやすくは殺すことは出来ないが、力を入れれば殺せましょう」と答えた。続けて「虫などは少しのことで必ず殺せる。しかし生き返らせる方法を知らないので罪を犯すことになり、そのような事は無益です」と言っているところに、5~6匹の蛙(かえる)が庭に出て来て池の方へ飛び跳ねていった。若い僧が「もし仰ることが本当ならば、あれを一つ殺してください。試しに見せてください」と言ったので、「罪作りな御坊さんですね、しかし私を試そうとしていらっしゃるので、殺してお見せしましょう」と応じ、草の葉を摘み取って物を唱えるようにして蛙の方へ投げると、その葉が蛙の上にかかった途端にぺちゃんこにつぶれて死んでしまった。これを見た僧たちは顔色を変えて恐れた。晴明は家の中に人がいない時には式神を使うようで、ひとりでに格子戸が上げ下ろしされたり、門が閉められていたという。

(※)式神…陰陽道において、陰陽師が使役するという鬼神。

巻十二 
  • 縦22.7cm
  • 横16.0cm

第二十四話「一条桟敷屋(さじきや)、鬼の事」

今は昔、一条の桟敷屋にある男が泊まって遊女と一緒に寝ていたところ、夜中にすさまじく風が吹き雨も降った。そんな中、大路(おおじ)に「諸行無常」と唱えて通り過ぎていく者がいる。何者だと思い、戸を少し開けて見てみると、身長は軒と同じくらいで、馬の頭をした鬼であった。恐ろしさに戸を閉めて奥の方に入ったところ、鬼が戸を開けて顔を差し入れ「よくも見たな、よくも見たな」と言ったため、太刀を抜き「入ってきたら切る」と身構えて遊女をそばに置いて待っていると、鬼は「さあ、しっかりとご覧あれ」と言い去っていった。男は「これが百鬼夜行というものか」と恐ろしく思った。それからは、再び一条の桟敷屋に泊まることは無かったという。

巻十四 
  • 縦22.6cm
  • ​横15.9cm

第十話「御堂関白の御犬、晴明等奇特の事」

今は昔、御堂関白殿(藤原道長)は、法成寺を建立された後、毎日御堂へ参られていたが、白い犬を可愛がって飼っていたため犬はいつも離れずに御供をしていた。ある日、いつものように御供をしていたが、門を入ろうとした際に犬が立ち塞がるようにして中へ入れさせまいとした。「どうした」と言い、車から降り中に入ろうとすると、犬は裾を咥えて引き留めた。関白は「きっと訳があるのだろう」と思い、安倍晴明に「急いで来い」と使者を遣わした。すぐにやって来た晴明に訳を尋ねると、しばらく占ってから「これは君を呪う物が道に埋めてあるのです。もし呪物を越えてしまったら、不吉なことになります。犬は神通力を持っている生物ですので、それを告げてくれたのです」と答えた。関白が「それでは、呪物はどこに埋められているのか。占って探し出せ」と言うと、またしばらく占って「ここです」と答えたので、そこの土を5尺ほど(約1.5m)掘ってみると問題の物が見つかった。かわらけ(素焼きの土器)を二つ合わせて、黄色のこよりで十文字に縛ってある。かわらけの合わせを開いてみると中には何も無く、ただかわらけの底に朱で「一」と書いてあるだけであった。晴明は「この呪法は晴明の他には知っている者はおりません。もしや道摩法師(どうまほうし)(安倍晴明の弟子の陰陽師・芦屋道満)が行ったのではないでしょうか。問いただしてみます」と言って懐から紙を取り出し鳥の形に折って呪文を込めて空に放り投げると、たちまち白鷺になって南へ飛んで行った。使者に「この鳥の落ち着く所を見て参れ」と走らせると、鳥は六条坊門万里小路(までのこうじ)の辺りの古家に落ちて入った。使者はすぐに家主の老法師を捕らえて戻った。法師は呪詛の理由と問われると、「堀河左大臣顕光(あきみつ)公の語りを受けて行いました」と答えた。「この上は流罪にすべきであるが、道摩の罪ではない」として、「今後はこのようなことはしてはならない」と老法師を戒めて、本国播磨(現在の兵庫県の西南部)に追放した。
この顕光公は死後怨霊となり、御堂関白へ祟りをなした。悪霊左府と名付けられたとか。御堂関白はこの犬をさらに可愛がったという。

鬼夜行絵巻(模本)

  • 縦28.1cm
  • 江戸時代・文化3年(1806)
  • 東京国立博物館所蔵
  • 前期展示

狩野探幽(1602~1674)が17世紀に制作したと伝えられる「百鬼夜行絵巻」の模本で、模写は不明。鍋や釜、琴、琵琶などの古道具が変化した妖怪たちがユーモラスな姿で描かれる。
本作のように、長い年月を経た末に意思を宿した道具類(付喪神)を連続的に描く絵巻は室町時代(16世紀)以降に現れたと伝えられている。特に京都・大徳寺真珠庵所蔵「百鬼夜行絵巻」は現存最古の作品であり、国内外に数多く伝わる諸本を研究する上で重要な位置を占めた。
小松和彦氏によると「百鬼夜行絵巻」は“真珠庵本”の他に、京都市立芸術大学所蔵の“京都市芸大本”、国際日本文化研究センター所蔵の“日文研本”、兵庫県立歴史博物館所蔵の“兵庫県歴博本”の4つの系統に分かれており、それぞれ描かれる妖怪や画面構成等に違いが見られる。展示史料には“真珠庵本”と同じ妖怪が描かれているが、登場する順番が異なる。

泣不動縁起

  • 縦31.7cm
  • 室町時代・15世紀
  • 奈良国立博物館所蔵
  • 後期展示

不動明王のご利益を描いた絵巻物。
病を患った三井寺(滋賀・園城寺)の僧・智興の身代わりとなった弟子の証空は、日頃信仰していた絵画の不動明王像がその病を引き受けてくれたために助かる。不動明王像は獄卒によって地獄に連れて行かれるが、閻魔王との対面の末に地獄から放たれる。展示箇所は、証空の依頼で智興の病気の行く末を占う安倍晴明を描いた場面。式神(前鬼・後鬼)を従えつつ祈祷を行う晴明の前方には、疫病の神が数体座して対面している。

化物図巻

  • 縦29.1cm
  • 江戸時代・17世紀
  • 九州国立博物館所蔵
  • 後期展示

江戸時代前期に活動した狩野派絵師・狩野宗信(生没年不詳)が制作した絵巻。
宗信は、寛永年間(1624~1644)に中橋狩野家を開いた狩野安信(1614~1685)の門人と伝えられる。本作は人に化ける狐狸や大入道、化け猫、河童、雪女、土蜘蛛など多種多様な妖怪が羅列して描かれており、各場面に詞書は付随しない。本作のような図鑑的な表現は江戸時代の作例に多く見られる。こうした傾向は、怪異・妖怪を「恐怖の対象“ではなく「娯楽の対象”として捉える当時の人々の思想が背景にあったとされている。

芸州武太夫物語絵巻

  • 縦25.7cm
  • 江戸後期
  • 立花家史料館所蔵
  • 全期展示

柳川藩主立花家に伝来した全3巻の絵巻。
江戸時代に備後国三次(現在の広島県三次市)に住んでいた稲生武太夫(1734-1803)が、平太郎という幼名を名乗っていた寛延2年(1749)7月に体験した出来事を題材にしている。旧暦7月1日から始まる30日間に平太郎のもとを訪れた様々な怪異が、巧みな筆致で臨場感豊かに描かれている。この妖怪物語は江戸時代以降、「稲生物怪録」という総称で全国的に広く普及した。本作は終盤に魔王が登場するが、裃を着た武士の姿で描かれており、切りかかろうとする平太郎を制するなど、怪異のイメージとはやや乖離した人間味のある描写がされているのに面白みが感じられる。

鍾馗図 三輪晁勢筆

  • 縦82.5cm
  • 横41.8cm
  • 昭和時代
  • 個人所蔵・都城島津邸保管

全期展示都城島津家伝来の掛軸で、疫病神を追いはらい魔を除くと信じられた中国の民間伝承由来の道教神鍾馗が描かれている。日本においては、鍾馗は平安時代末から信仰された。
伝承によると、唐代の皇帝玄宗(685~762)が病を患い床に就いていたところ、夢の中で悪鬼を退治する人物を目にする。玄宗が正体を尋ねると「自分は終南県出身の鍾馗。官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて自殺した。だが高祖皇帝(唐の初代皇帝)が手厚く葬ってくれたので恩に報いるためにやってきた。」と答えた。夢から目覚めた玄宗の病はすっかり治っており、以降、鍾馗は疫除けや受験の神様として祀られたという。

三輪晁勢(みわ・ちょうせい)
  • 明治34年~昭和58年(1901~1983)

新潟県出身の日本画家。大正10年に京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、堂本印象(1891~1975)に師事。同13年に卒業すると、超世と号し昭和2年「東山」で帝展に初入選。その後度々賞を受ける。昭和35年に日展評議員に就任。同44年日展理事、同52年参与、同55年顧問となった。華やかな色彩と装飾的な画面構成が特徴。

宮崎県指定文化財 淵鑑 十之十二

  • 縦24.5cm
  • 横15.7cm
  • 江戸中期
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

本史料は、中国清代に制作された類書(百科事典)である『淵鑑類函』を写したもの。『淵鑑類函』は、清朝第4代皇帝康煕帝(在位:1661~1722)の勅命により編さんされ、天部から虫豸(ちゆうち)部に至る45部をさらに細目化した450巻から成る。康煕 49 年(1710) 完成。編さん作業では、内閣大学士・張英、詩人・王士禎らが総裁を務め、130名余りもの人員が充てられたとされている。展示箇所は陰陽について解説している。本項は45部のうち歳時部に分類され、この他に律や暦、五行、歳、暦などの項目が取り扱われている。

3 南九州における怪異譚

 国宝 島津家文書 倭文麻環(しずのおだまき)

  • 江戸時代
  • 東京大学史料編纂所所蔵
  • 巻七、十:前期展示
  • 巻四、九:後期展示

『倭文麻環』は、鹿児島藩主の命を受けた国学者・白尾国柱(1762~1821)によってまとめられた説話集。全12巻から成る。序文に編さんの経緯が記されており、それによると、文化元年(1804)に江戸の鹿児島藩邸において、現存しているものから昔に語られていた伝承までを書き集め、しばしの楽しみとして整えるようにと仰せつかったため、広く世に伝えられてきた様々な話や珍しい怪談を収集して挿絵も加えて献上したという。なお、この時に上撰された本は文化3年(1806)3月4日に発生した火災によって失われており、文化8年(1811)12月に原本の下書きを写して献上するよう再度命令が下った。なお、原本及び再献上本はどちらも現存しておらず、島津家本は明治に入ってからのものと推定される。

巻四 
  • 縦27.0cm
  • 横19.7cm

三話「竹内助市、天狗の翮を斫る」

本家第19代島津光久(1616~1694)の頃の料理人・竹内助市が、竪野佐藤小路(現在の鹿児島市下竜尾町付近)で出会った天狗の羽根を刀で切り落とした話。

助市は、島津家関係者の看病のために毎日夕方から丑三つ時(午前2時~2時半頃)に奉公していた。ある夜、竪野佐藤小路の森の中を通り抜けた時に鳥の羽音と共に何者かが頭上を掠め、持っていた刀で切りつけたところ手ごたえがあり、近くに切り落とされた大きな羽根を見つけた。助市がその羽根を持ち帰った翌晩、暗闇から名を呼ぶ声が聞こえて脇差を手に外に出ると、何者かと組み合いになった。結局その者の正体は判然としなかったが、年老いた鳶(とび)が天狗に化けたのであろうと結論付けられた。

巻七
  • 縦27.1cm
  • 横19.5cm

五話「襲の郡の蟒蛇」

大隅国曽於郡郷(現在の霧島市霧島田口から国分重久付近一帯)の郷士・津曲源兵衛が大蛇を退治した話。

寛政11年(1799)4月12日、猪狩りのため春野山の牧(鹿児島藩の馬の牧場)へと出かけて大蛇に遭遇した源兵衛は、持っていた鉄砲で大蛇の喉を撃ち人里へ逃れた。逃れた先で行き会った知り合いは源兵衛に、大蛇を殺すと祟りが有るという言い伝えを教えると共に決してこの出来事を人に話さないよう口止めをしたという。後にこの知り合いが事件の場所に行ってみると息絶えた大蛇の姿があったが、慣習に従い他言しなかった。春野山の牧では以前から子馬がいなくなることが度々あったが、大蛇が退治されて以降はそういったことは無くなったという。源兵衛の行いは大切な藩の馬を守ることに繋がったが、結果としてこの功績は広く世に知られることはなかった。

巻九
  • 縦27.0cm
  • 横19.5cm

六話「蓮鏡院、白昼老狐のために魅さる」

日向国諸県郡庄内山田(現在の宮崎県都城市山田町)椎川内の山伏・鬼塚蓮鏡院が一匹の年老いた狐に悪戯をして仕返しを受ける話。

蓮鏡院は所用で都城の町へ向かっている際、道端に老狐が眠っているのを見つけ耳元で法螺貝を吹き驚かせた。その日の帰路、まだ日没には早いにも関わらず突然日が沈み暗闇に包まれたため、行く手に現れた辻堂で休むことにした。そうしていると、松明(たいまつ)を持った5~6人の男たちが堂前の庭に墓を掘り棺を埋めて去っていった。男たちが去った後に墓の中から女の幽霊が出て追いかけてきたため、蓮鏡院が御堂の棟木まで逃げて法螺貝を吹きならすと、女は消えて暗闇も晴れ、元の夕暮れ前の風景に戻った。一連の様子を近くで見ていた農民に事の次第を追及された蓮鏡院は、後日事の次第を告白したという。

巻十
  • 縦27.2cm
  • 横19.6cm

四話「大蜘蛛」

島津家の菩提寺・福昌寺に住み着いた大きな八手蜘蛛(足高蜘蛛)の話。

福昌寺の庫裏(寺院で、食事を調理するための建物)の屋根を葺き替えた際、食いかけの鼠を咥えた見たこともないような大蜘蛛が出てきたという。動物を捕食する大蜘蛛は福昌寺以外の場所でも目撃されており、人々に気味悪がられている。

こうした大蜘蛛にまつわる物語は唐時代の『酉陽雑俎』や明時代の『五雑俎』等、いくつかの中国随筆集にも見られ、中には人を殺める危険な存在として描写されている。

 宮崎県指定文化財 賎濃於多満喜(しずのおだまき) 

  • 縦26.6cm
  • 横19.2cm
  • 江戸時代後期
  • 都城島津邸所蔵
  • 巻四、九:前期展示
  • 巻七、十:後期展示

 「賎濃於多満喜」(以下、「都城島津家本」)は、都城島津家に伝来した説話集。島津家文書の「倭文麻環」(以下、「島津家本」)の写本と考えられる。都城島津家本と島津家本を比較すると、収録されている説話の内容は同一であるが、挿絵の数や場面描写に差異が見られる。

白紫糸段威大鎧

  • 江戸時代後期
  • 胴高31.0cm
  • 個人所蔵・都城島津邸保管
  • 全期展示

江戸末期の鹿児島藩主・島津斉彬(1809~1858)が元服の際に着用したと伝えられる。平安時代の大鎧を再現した「復古調」の甲冑で、各所に丸に十字紋があしらわれた華やかな造りとなっており、前立てには島津家の守護神として信仰された稲荷が配されている。

島津家の稲荷信仰は、初代忠久誕生伝説が源流となっている。伝説によると母・丹後局(実名・高階栄子)は雨の降る夜、摂津国の住吉大社(現在の大阪市住吉区)で狐火に照らされて出産したという。また文禄・慶長の役でも島津軍に味方する狐の言い伝えが残っており、島津家と稲荷は深く関係していることが分かる。そのため、島津領においては稲荷信仰が広く根付いていた。

大石兵六夢物語絵巻  村瀬宜得筆

  • 江戸時代
  • 縦35.0cm
  • 鹿児島県立図書館所蔵
  • 全期展示

本史料は、江戸時代中期の鹿児島藩士・毛利正直(1761~1803)によって天明4年(1784)に書かれたとされる文学作品『大石兵六夢物語』を題材にした絵巻物。詞書は無く、絵画のみで物語が展開する。

この物語は、鹿児島の若者大石兵六と仲間たちが、人をたぶらかす妖怪(狐)の話を耳にしたことから始まる。妖怪退治を公言して出かけた兵六だが、迎え撃つ狐たちに化かされて散々な目に遭う。苦しめられ失敗を重ねた兵六であったが、最終的に二匹の老狐を討ち取り帰還した。

絵巻制作者の村瀬宜得1877~1938)は愛知県出身の画家で、日本近代洋画の父として知られる黒田清輝(1866~1924)にも絵を学んだ人物。毛利正直の『大石兵六夢物語』は高い評判を受け多くの写本や刊本が普及したが、村瀬も昭和4年(1929)12月に、自身で頭注・挿絵を手掛けた『薩摩/奇書 大石兵六夢物語』を出版している。

宮崎県指定文化財 諏訪三郎物語絵巻

  • 江戸時代初期
  • 縦27.3cm
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

諏訪神社の縁起を物語にした絵巻物。諏訪三郎(甲賀三郎)が地底を巡って様々な出来事に遭遇した後に生還し、諏訪大明神となるまでを詞書を交えて綴っている。同じ主題の絵巻は本史料の他に、野々美谷町の諏訪神社に伝わったものも現存している。

本史料の由来は、『庄内地理志』巻七十六に記されている。それによると、慶長11年(1606)、長渓庵祖鈿(ちょうけいあんそでん)という人物が施主となり、息災延命・人法繁昌・求願成就・諸人愛楽などの願いを込めて制作されたものである。本文と絵画を手掛けたのは頼円坊宥成という山伏だが詳細は不明。若狭国(現在の福井県の南西部)の高懸山に住んでいるという魔王(麒麟王)や蛇の姿になった三郎など、怪異的な存在が細かな筆致で描かれており、美術的にも優れた史料である。

4 島津領内における怪異の受容と文化・領政への反映

吾妻鏡 巻26

  • 江戸時代後期~明治時代
  • 縦27.4cm
  • 横20.8cm
  • 国立公文書館所蔵
  • 全期展示

『吾妻鏡』は、鎌倉時代に成立した歴史書。13世紀末~14世紀初頭に鎌倉幕府によって編さんされたとされる。巻数未詳。江戸時代以降の流布本は内閣文庫の北條本(国立公文書館所蔵)を底本とする。

展示箇所は、島津家初代・島津忠久(?~1227)が出仕した、貞應元年(1222)3月8日と元仁元年(1224)10月16日の祭祀記録である。忠久は陰陽道関係の諸役に度々従事しており、先行研究では、忠久は京都を清浄に保つことを職能とする存在であったことが指摘されている。

続日本紀 巻1

  • 江戸時代・慶長19年
  • 縦30.9cm
  • 横22.3cm
  • 国立公文書館所蔵
  • 前期展示

展示箇所は文武天皇3年(699)5月24日の項で、修験道の開祖である役小角(生没年不詳)が小豆島(現在の香川県小豆郡)へ流罪にされた記事である。

役小角とは、7世紀末頃に大和国葛城山(奈良県御所市と大阪府千早赤阪村の境の山)に住したとされる呪術者。山岳修行を極め、鬼を使役した伝承が残っている。

都城島津家伝来史料『庄内地理志』巻七・巻十八に記されている大館賢順(?~1659)の経歴に、役小角の教えを汲んで山伏となったとある。大館賢順は第12代北郷忠能(1590~1631)に仕え、都城の取添(現在の都城市都島町)に住した。

宮崎県指定文化財 庄内地理志

  • 江戸時代後期
  • 都城島津邸所蔵
  • 巻五、十八:全期展示
  • 巻六十一、六十七:前期展示

『庄内地理志』は寛政10年~文政期(1798~1830)に編さんされた地誌で、112巻と拾遺1巻の全113巻から成る。現存するのは103巻。第22代島津久倫(1759~1821)の命により、家老・北郷資清(1762~1832)及び記録方・荒川儀方(1765~1835カ)が中心となって編さん事業が進められた。地域の歴史や風土、名勝、寺社の縁起など、都城の歴史を知る上で貴重な史料である。

巻五 弓場田口二 宮丸村 兼喜宮上
  • 縦25.0cm
  • 横16.5cm

巻五には、第10代北郷時久(1530~1596)が創建した兼喜大明神について記されている。この神社の祭神は時久の長子・相久。相久は天文20年(1551)11月に生まれ、幼名は鶴千代という。元服してからは二郎、後に相久と名乗った。居城は、初め都城西之城であったが、その後安永金石城へと移った。武勇に優れた人物で、肝付氏や大友氏との戦いで戦功を挙げた。しかしある時、家臣の讒言によって父・時久との間に不和が生じ、天正7年(1579)8月に安永金石城に300人程の兵が差し向けられた。相久は金石城で自刃し、遺体は釣璜院葬られた。

相久の死後、甲冑を身に着け白馬に乗った武者の亡霊や恨みを訴える男児、悲しみを述べる女児など様々な怪異が発生し、人々は亡き相久の幽霊だと恐れた。時久は哀惜の念を抱き、天正9年(1581)に若宮八幡を建立して相久の御霊を祀った。文禄4年(1595)に北郷氏が祁答院(現在の鹿児島県薩摩川内市)へ移封される際、社殿も一緒に移されたが、慶長5年(1600)に元の場所に遷座された。「霊八幡」、「兼喜明神」を経て、天和2年(1682)に「兼喜大明神」と改号された。

巻十八 下長飯 本邑 三厩 護摩所
  • 縦25.0cm
  • 横16.5cm

都城島津家家臣であった大館賢順について記されている。賢順は初め新原寺の頼盛という法師の弟子となり、役小角の流れを汲んで山伏となった。頼盛について源氏物語を相伝し、その後立花を好み京都の池ノ坊専好の下で学んだ。万治2年(1659)5月6日に没し、南林寺(鹿児島県鹿児島市南林寺町)に葬られた。『庄内地理志』巻17には都城における修験道の様相が記されており、これによると近世の都城には当山派(真言宗の僧聖宝を祖とし、京都醍醐寺の三宝院が本山の一派)の寺が6つあった。そのうちの一つに賢順が学んだ新原寺が挙げられている。

巻六十一 安久村 鶴岡 久玉 白山
  • 縦25.0cm
  • 横16.5cm

野村某という人物が、都城篠池の辺りで女の幽霊に遭遇した出来事が記されている。記録によると女は赤子を抱いていて、「この子をしばらく抱いていただければ、苦患を逃れることが出来る」と言った。野村は了承してその子どもを抱いたところ、予想に反して重い真石であった。しばらくして幽霊が戻り、苦患を逃れることが出来たため御礼を申し出た。そこで野村は能書のように字を巧みにしたいと答え、幽霊から硯(すずり)を贈られた。それから野村家では代々書に優れた人物が生まれたが、ある時この硯を殿様に進上すると、以降は代々書の巧みな者はいなくなったという。

巻六十七 五十町村 城内 正福寺 隆祥院
  • 縦24.9cm
  • 横16.4cm

西明寺廟所の絵図や各石塔の説明が記されている。

西明寺は二厳寺の末寺であり、都城島津家の菩提寺の一つであった。絵図を見ると歴代領主やその室(妻)、先祖らの石塔に交じり「手学妙習大姉墓」という墓が確認できるが、この墓の主は都城島津家に連なる者ではない。記録によると、人々には「手習いの墓」と呼ばれており、位牌は大渓寺にある。この人物は不条理な死を迎えたことで妖怪と化し、領内の人々を恐れさせたという。

宮崎県指定文化財 三国名勝図會 二十

  • 明治時代
  • 縦26.5cm
  • 横19.0cm
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示
都城盆地北部の拠点であった志和池城ついて記した項。

志和池城は水流村にあり、鶴丸城とも呼ばれていた。「本丸(内之城)」、「二之丸(中之城)」、「西拵」、「新城」、「小城」の5つの曲輪から成る。北郷氏が代々領していたが、天文年中(1532~1555)北原氏が志和池城を攻め取ると、地頭として白坂下総守という人物が配置された。天文12年(1543)頃には北郷氏と北原氏の領地争いが激化し、同年5月に北郷忠相・忠親率いる北郷軍が志和池城を落城させた。この戦いで、白坂下総守をはじめとする北原勢500人余りが戦死したと伝えられている。志和池城を奪還した北郷氏であったが、白坂下総守の死後に怪異が頻りに発生し、水流村の住人は非常に恐れた。住民は祟りを避けるために神社を建立して白坂下総守を祀り、これを荒人大明神と号した。

霧島山四方門のうちの一つ不動堂について記した項。

霧島山金剛院明觀寺の記録によると、霧島山の四方には門が設置されており、不動堂は南方にあった。不動堂の建立には島津義弘(1535~1619)の帰依(きえ)僧(そう)である霧島修験者・空順(1663~1738)が携わっている。空順の日録には、当時の都城領主の求めに応じて建立に取り組んだと記されている。また普請の際には、本家は国中に申し付けて楠や杉などの木材を調達し、都城領主からは多数の寄進があったという。こういった縁から空順は度々、都城で起こった天災や不思議な出来事に対する祈祷を依頼された。

宮崎県指定文化財 安永城図

  • 江戸時代後期
  • 縦28.5cm
  • 横39.0cm
  • 都城島津家所蔵
  • 全期展示

安永城は、第7代北郷敏久によってつくられたと伝えられている。戦国時代は、北郷氏がおさめた「庄内十二外城」の一つとして数えられた。また慶長4年(1599)に勃発した庄内の乱では、攻防の要の一つとして機能したが、元和元年(1615)に発布された一国一城令により廃城となった。

本史料から、安永城は「本丸」「二之丸」「金石」「取添」の4つの曲輪(城を構成する区画)から成っていたことが分かる。相久が自刃した「金石」は、後年の土地開発などによって現在ほとんどが破壊されている。

宮崎県指定文化財 日帳 寛永18年(1641)12月

  • 江戸時代
  • 縦26.5cm
  • 横18.0cm
  • 都城島津邸所蔵
  • 前期展示

都城島津家伝来史料には、江戸時代に都城島津家の役人が記した20冊の日帳が残っている。本史料はその内の一つで、「寛永十八年十二月 日帳」と題され、寛永18年11月1日から寛永19年3月9日までの出来事が記されている。記録部署・記録者は不明。寛永19年正月5日の記事に、昨年12月29日に安永で怪異が発生したため占いを行ったとある。また、「筮(うらない)」の記述から、筮竹(ぜいちく)を用いた易占が行われたと考えられる。なお、都城島津家伝来史料には家臣旧蔵の「易経」が含まれており、武士の教養として学ばれると共に有事における神意の伝達に活用されていたことが分かる。

六日  当番 晴

~前略~

一 極月廿九日之夜五ツ時ニ、安永へ怪違御座候ニ付、忠以へ被仰付筮被成御座候、其御占之趣 後室様へ被成御披露候、御使豊丸与兵衛殿参会ニて申候、御返事ハ御立願なとゝ御座候而、別而御分別も無御座候、被思召候処ハ、頃前々ニおりわり諸仏神祠にも大方ニ御座候、御先祖之御祭祀なとも疎略ニ罷成候事咲(笑)止ニ思食候間、左様之儀を何とそ可有御談合も御座可有候哉、いつれとも役所談合之通又々可被聞召候由候事、奥様へも申上候て可然由候事

一 御占ハ、遇之需小畜当所ハ上六

 易道具 筮竹(ぜいちく)・算木(さんぎ)

  • 江戸時代
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

江戸時代の漢学者・江夏生官の子孫によって伝来された占いの道具。

筮竹は竹を細く削った50本の棒で、算木は長さ約10cm,幅約2cmくらいの木製の角棒で6本1組。易は古代中国を起源とする。伏犠(ふっき)から始まり皇帝の学問として発展を見せ、周代の皇帝文王と息子の周公によって大成されたと伝えられている。古代中国においては重要な決断をする際、巫(ふ)・祝(しゅく)と呼ばれる神官によって、主に亀卜(きぼく)・蓍筮(しぜい)の2種類の占法によって神託を受けていた。蓍筮が大きく発展したのは周王朝(紀元前11~前8世紀)以降で、蓍という多年生の草の茎を用いた。後年、取扱いのしやすい竹を使用するようになり、現在の筮竹となった。算木は陰陽を表し、筮竹で占った結果(卦)を目で確認するために使用する。

江夏生官は、正保(1644~1648)の頃に内之浦に渡来した明人である。江戸時代初期に内乱を避けて広東から移住してきた。都城の唐人町で商売を始め、それ以降江夏家は代々漢学や医業などを生業とした。

宮崎県指定文化財 御用人座日記 正保4年(1647)8月

  • 江戸時代
  • 縦26.3cm
  • 横18.0cm
  • 都城島津邸所蔵
  • 後期展示

正保4年(1647)8月付の日記。家老を補佐する役職である「用人」によって記されたもので、その日にあった特筆すべき出来事が記録されている。

展示箇所は8月20日の項で、八幡宮御祭における流鏑馬のための馬を飼育する厩の板戸に怪しい花が咲いたという申し出が役所にあり、天長寺などから怪除けの御札を貼るよう指示されたという内容である。天長寺は天文7年(1538)8月、第8代北郷忠相(1487~1559)によって建立された真言宗系寺院。

宮崎県指定文化財 〔天文の覚〕

  • 江戸時代
  • 縦32.9cm
  • 横46.6cm
  • 都城島津邸所蔵
  • 全期展示

空に現れる星の解説をまとめたもの。

冒頭に、常には現れない星を妖怪になぞらえて“怪星”と呼ぶとあり、続いて具体的に何が怪星に該当するかを図入りで示すと共に、それが現れた時に起こる災いについて説明されている。これによると、孛星(はいせい)や彗星が流れることは火災、兵乱の兆候であるという。都城島津家家臣においては陰陽道に関する資料が多く残されている。怪異発生や星の異常への対処のため、家臣によって学ばれたものと考えられる。

ガラッパ

本図には鹿児島県の悪石島に住むというガラッパが描かれている。体は細く手足が長い、特徴的な姿をしている。伝承によると山で道に迷ったり腹を壊したりした場合、それはガラッパの仕業であるという。

河童は日本で最も名の知れた妖怪の一つで全国各地に伝承が残っており、地域によって様々な呼び名がある。ガラッパは主に鹿児島や熊本における呼称とされるが、宮崎の伝承にもガラッパの名が確認できる。

 

 

[水木しげる作複製原画] 縦29.7cm 横42.0cm 【全期展示】

水木しげるが手掛けた妖怪画の複製。

 河童ノ手足

  • 江戸時代
  • [手]縦4.0cm 横8.2cm
  • [足]縦2.0cm 横14.5cm
  • 個人所蔵・都城島津邸保管
  • 全期展示

童前之図・後之図

  • 江戸時代
  • 縦27.4cm
  • 横39.
  • 個人所蔵・都城島津邸保管
  • 全期展示

 河童ノ手足由来書

  • 江戸時代
  • 縦26.7cm
  • 横38.7cm
  • 個人所蔵・都城島津邸保管
  • 全期展示

都城島津家に伝来した、河童の手足とそれに関連する資料。

由来書によると、この手足の持ち主は三股町・梶山の川に現れた河童であるという。文政年間(1818~1830年)のある時、鹿児島藩士の上村休助が河童を見つけて射殺したところ病気を患ってしまった。そこで休助は知人の大川原世則を介して修験者にまじないを依頼し、無事に回復した。休助は御礼として件の河童の手足を世則に贈り、世則はそのうち一組を大川原家へ、もう一組を都城島津家へ献上したと伝えられている。

摺物 水虎相伝妙薬まじない(河童)

  • 江戸時代・19世紀
  • 縦22.5cm
  • 横31.0cm
  • 国立歴史民俗博物館所蔵
  • 前期展示

薬の効能を説く内容に河童の姿図9点が添えられた2枚1組の摺者。

本史料における河童の身体描写は「水虎十二品之図」などとの類似が指摘されているが、描かれる数が省略されるといった相違点が見られる。薬売りによって配布されたという説もあるが、詳細は不明である。

摺物 水虎十式品之図

  • 江戸時代・19世紀・安政2年(1855)
  • 縦37.5cm
  • 横51.5cm
  • 国立歴史民俗博物館所蔵
  • 後期展示

「水虎十式品之図」は、各地で目撃・捕獲された河童を描いた刷り物。

四足歩行・二足歩行の別や体の色など、様々な特徴を持つ河童が確認できる。同様の摺物は複数残っており、江戸時代の河童研究書『水虎考略』を源流としている。『水虎考略』は昌平坂学問所の教授を務めた儒学者・古賀侗庵(1788~1847)によって文政3年(1820)にまとめられた。和漢の地誌や説話集の河童にまつわる記事に加え、実際に河童に遭遇したという人々からの情報を基にした書物である。

また、本史料には河童の解説と共に「いにしへの約束せしを忘るなよ門立男氏ア菅原」という歌が記されている。これは水難避けの呪いであり、近世以降、類似の呪文が各地に伝わる。河童を妖怪としてではなく、実際に存在する“イキモノ”と捉える江戸時代の人々の観念が窺える貴重な史料。

河童蛤角彫根付

  • 江戸時代・19世紀
  • 高2.1cm
  • 東京国立博物館所蔵
  • 後期展示

根付とは、印籠や巾着、煙草入れなどの提物・袋物がずり落ちないように帯に挟んで用いた留め具。その起源は明らかになっていないが、一般に用いられるようになるのは室町時代末期頃とされている。工芸品として注目され始めたのは江戸時代の17世紀後半頃のことで、木材をはじめ象牙や鹿・水牛の角、金属、べっ甲など様々な素材に精巧な細工が施された作例が数多く残っている。本作は、動物の角を材料としており、蛤に登る河童の姿が彫り出されている。

河童の手

  • 江戸時代
  • 長9.0cm
  • 柳川古文書館所蔵
  • 全期展示

  • 江戸時代
  • 縦15.5cm
  • 全期展示

芦塚村(現在の久留米市城島町)の川に出没した河童から切り取ったと伝えられる手。『新考三潴郡(みづまぐん)誌』に収録されている伝説によると、本史料は同村の医師であった江頭という人物が川で馬を洗っていた際、河童が馬を川の中に引き込もうとしたため、刀で手を切り落として持ち帰ったという。河童の手は長い間江頭家で保管されていたが、その後、柳川の広松家に移った。河童の手には書状が付属している。本書状から、河童の手は久留米藩の嗣子であった有馬頼善(寛政5年に廃嫡)に上覧され、頼善は御守にするために指先を所望したことが分かる。

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