本文
広報誌で連載中の「ぼんちくんと歴史探検」。ホームページではもう少しくわしく解説します。
今回のテーマは、「都城跡(みやこのじょうあと)」のお話です。
市の名前の「都城(みやこのじょう)」はもともとお城の名前でした。「都之城」とも書きます。
16世紀中頃(室町時代)、「都城」のお城には、島津宗家(しまずそうけ)の4代目の子どもの資忠(すけただ)から始まった北郷氏(ほんごう)がいました。そのうちに北郷氏がおさめる土地のことを「都城」とよぶようになり、だんだんと盆地一帯をさすようになっていったと考えられています。
明治時代になると「都城県」や「都城町」といった行政区が生まれます。この「都城町」が合併(がっぺい)をくりかえし、今の「都城市」へと発展していきました。
「都城」のお城の中には、神武天皇(じんむてんのう)と関係があるとされる「都島(みやこじま)」という小さなお山があります。「都城」という名前の意味は、「都島にあるお城」といわれています。
「都城」の名前の一番古い記録は、永和2年(1367年)の古文書にかかれた「ミやこのしやう」という言葉といわれています。
都島町と南鷹尾町にあります。都城市役所から西へ1キロメートルほどの所です。住宅地と畑や田に囲まれた緑の城跡が今でも広がっています。
約20万平方メートル、東京ドーム6個分ほどの広さがあります。
「都城」はシラス台地につくられていて、本丸もそのほかの所もだいたい同じ高さの平らなお城です。本丸を囲むように大きな掘で区切られたいくつもの曲輪(くるわ・堀などで区切られた、お城の中の区画)がならび、大小さまざまなテーブルをいくつも並べたような形となっています。
「都城」には大阪城や熊本城のような大きな天守閣も高い石垣もありません。また、けわしい山のてっぺんにつくられたお城でもありません。しかし、大きな堀と10メートルに近いまっすぐなシラスの崖(がけ)に守られた「都城」は、とても攻めにくいお城だったと考えられます。
室町時代、北郷氏の2代目の北郷義久(ほんごうよしひさ・写真はイメージ)がつくったと伝えられています。最初は「本丸」・「西城」・「中之城」・「南之城」・「外城」とよばれる五つの曲輪だけでした。
戦国時代になると8代目の北郷忠相(ほんごうただすけ)が「新城」・「池之上城」・「中尾城」・「小城」の四つの曲輪を追加しまた。
戦国時代の終り頃、北郷氏にかわって「都城」をおさめた伊集院氏(いじゅういん)が「取添」という曲輪をつくり、現代までのこる「都城」が完成しました。
都城歴史資料館でみることができます。