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持永家は、上庄内郷地頭(じとう)の三島通庸(みしまみちつね)の求めに応じて庄内に移住した家のひとつで、商家として繁栄を築いた、地元の名士です。
隠居棟は、玄関・隠居棟とも入母屋(いりもや)瓦葺き(かわらぶき)で、玄関天井は各縁天井で仕上げ、取り次ぎを経て、茶の間、食堂へと続いています。茶の間の横には、客間のひかえの次の間があります。客間は良質の杉材を使い、長押(なげし)付きの10帖間で、木目のきれいな古木の杉板尺幅で透かしの張り竿縁天井(さおぶちてんじょう)、ドイツ製のシャンデリア、彫刻欄間(らんま)など豪華さを感じさせます。建築年代は持永家に残されていた文書から、明治40年(1907)に建築されたことが分かります。トイレは口伝によると大正期の改築と伝わっています。
門および石塀は、敷地の南側東寄りに門を開き、その門から東隅まで約32.5メートル、門から斜路の北東に沿って約29.2メートルの石垣と石塀が回っています。
門は高さ約250センチメートルの石柱を立て、間口は約120センチメートルで両開きの板戸扉を設けています。石垣は11段の切石を積み、その上に頂部に笠石をのせた切石4段の石塀をめぐらせています。門および石塀の完成は、門横の石碑から明治45年(1912)に完成したことが分かっています。
石工は鳥取県出身の徳永長太郎(とくながちょうたろう)で、明治32年(1899)ごろ前田用水路工事のため、前田正名(まえだまさな)に呼ばれて庄内にやって来た人物です。