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郡元西原遺跡

記事ID:0002230 更新日:2020年5月1日更新

郡元西原遺跡って、なんだろう?

都城市郡元町にある遺跡です。これまでに2回の発掘調査が行われ、中世や近世の溝やその頃の土器や陶磁器などが見つかっています。

平成27年度の調査では幅約350センチメートル、深さ約150センチメートルで四角に掘られ、直角に曲がる大きな溝が見つかりました(写真・右)。このように大きくて、ていねいに掘られた溝は都城市では初めての発見です。そして、地中レーダー探査から、この溝が50メートル以上延びる大きな施設であることがわかりました。また、溝の中から出てきた陶磁器や火山灰からは、この溝が使われた時期が平安時代の終り頃にあたることもわかりました。

調査の様子 溝1

空撮2

現地説明会 (PDFファイル/約2メガバイト)

島津荘って、なんだろう?

11世紀に平季基(たいらのすえもと)が島津院(しまづいん・現在の都城市郡元あたり)を中心に開発し、藤原頼道(ふじわらのよりみち)に寄進(きしん)してできた荘園です。はじめは小さな荘園でしたが、だんだんと大きくなり、鎌倉時代には総田数八千町歩をこえ、鹿児島県と宮崎県の大半をしめる日本でもっとも大きな荘園となりました。

この発見、なにがスゴイのかな?

荘園の現地における経営拠点(けいえいきょてん)となる場所は「荘政所(しょうまんどころ)」とよばれます。これまで、島津荘の荘政所は郡元にあったと伝えられていましたが、正確な場所はわかりませんでした。また、日本全国においても荘政所とされる遺跡はごくわずかしか知られていません。

今回見つかった大きな溝は、荘政所と伝えられる郡元にあって、今まで見たこともないような大きな溝であり、平安時代の終り頃といった時期も加えると、島津荘の「荘政所」などの現地経営拠点を取り囲んでいた溝の可能性も考えられます。

今回の発見は、都城や南九州のみならず日本の歴史を考える上で、大きな資料となる可能性があります。

 溝2

島津荘と島津氏の関係は?

1185年、島津荘の下司職(げすしき・荘園の管理人)に源頼朝(みなもとのよりとも)から惟宗忠久(これむねただひさ)が任命されました。その後、惟宗忠久は島津荘の名前をとって「島津忠久」という名前に変えました。これが島津氏の始まりです。

島津荘がなければ、戦国時代に活躍した武家の名門の島津氏もなかったのかもしれません。

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