本文
都城市内では、薩摩焼の流れを引く、小松原焼という焼き物作りが行われていました。小松原児童公園や市立図書館北側の柳川原遺跡の発掘調査で、陶器の外面に「松原」銘のスタンプがあるものが見つかっています。
旧鹿児島藩内の一画を占める都城市内では、薩摩焼の流れを引く、焼き物作りが行われていました。
天明元年(1781)、都城島津家第22代久倫のときに、現在の蔵原町・天神町あたりに焼物所が開窯されましたが、経営不振のために長く続かなかったようです。
その後、第24代久本が、家臣の長峯正員に鹿児島の竪野窯で陶法を習得させ、嘉永5年(1852)、陶器製造所を開窯しました。この場所は、現在の小松原町、神柱神社西側の神柱公園忠霊碑広場付近で、当時は宮丸村の中に含まれ、付近に「松原茶屋」があったようです。
明治時代を迎えると、長峯個人の窯となったようですが、その後は、鹿児島の苗代川から来た陶工たち(李氏や朴氏ら)が焼き物作りを引き継ぎました。明治40(1907)年頃には、窯場一帯が公園化されることとなり、前田町の一角(現在の中山産婦人科付近)に窯が移されました。大正時代には、飯田広輔という陶工の独特な作品が有名になりました。
小松原児童公園や市立図書館北側の柳川原遺跡の発掘調査によって、陶器の外面に「松原」銘のスタンプがあるものが見つかっており、幕末から明治時代にかけての窯業の実在を示す貴重な資料です。