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諏訪山の墓地にあった石塔群を移したものと伝えられています。
江戸時代の地誌「庄内地理志」には次のような記録が残されています。
文明14年(1482)、新納是久(にいろこれひさ)とその子忠祐(ただすけ)の依頼により、西牟田武利とその子武安は戦に参加しました。同17年(1485)6月、新納忠祐が戦死したため、末吉の御在所山に葬り石塔を建てましたが、同18年(1486)8月、大風雨によって石塔が倒壊したので、木之河内の諏訪山に改修しました。また、新納忠祐の死後、西牟田武安が新納忠祐を名乗りましたが、同18年(1486)9月、松山で戦死しました。
瀬茅の石塔がこの記録にある諏訪山の石塔なのかはわかりませんが、当地域の中世史を知る上で貴重な歴史資料と考えられています。