山田町大古川・丸谷町大五郎
享保年間(1716~1736)、中霧島で開田を行っていた都城の斉藤助兵衛(さいとうすけべえ)は、財部のあべ松権六(ごんろく)と都城の藤崎伊兵衛(ふじさきいへえ)らと大古川から水を引き、志和池の大五郎を開田することを計画しました。
難工事の末、享保13年(1728)に8キロメートルの水路が完成し、70ヘクタールの水田(大五郎新田)が開かれました。
苦労してつくった水路に水を引いたが、軟弱な地盤のため水が浸透して困っていたところ、国分(鹿児島県)の塩売りが竹笹を敷くことを教えて解決したと伝えられています。