本文
元和(げんな)元年(1615)、それまでの拠点であった「都城」が廃城となったため、都城領主北郷忠能は城を下り、盆地底の扇状地面に「領主館」と新しい「まち」の建設を始めました。これを「新地移り」といい、現在の市街地の基礎はこの時に造られたとされます。
最初は天神山(現在の旭丘神社)を中心に、東西約360メートル、南北約270メートル、約99,000平方メートルの広さの屋敷が造られましたが、明暦2年(1656)からは、現在の明道小学校校庭あたりへと中心部が移動し、市役所東館入り口付近に表門が造られていたと伝えられています。
明治2年(1869)の版籍奉還によりその活動を終えましたが、都城県が設置された時期には、残された一部の建物が県庁として使用されました。
領主館模型(都城歴史資料館)