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川崎航空都城工場に、小林中学校の生徒が学徒動員されていましたが、昭和20年5月8日の空襲で生徒10人が亡くなりました。後に後遺症により1人が亡くなり、昭和56年、追悼のための慰霊碑が建立されました。
日本では、戦時中の昭和13年(1938年)から、国内の労働力不足を補うため、中等学校(現在の高等学校)以上の学生が工場や食料生産の勤労奉仕を行う「学徒動員」が実施され、昭和19年以降は、戦局の悪化から通年動員となりました。市内では、航空機を製造していた川崎航空都城工場(現在の都城医療センター付近)に、小林中学校(現在の小林高校)の3年生157人が学徒動員されていました。
昭和20年(1945)5月8日の朝突然、空襲警報が鳴り、寮から防空壕へ避難途中の生徒10人が、米軍機の爆撃を受けて亡くなりました。後に後遺症により1人が亡くなりましたので、11人を追悼するため、昭和56年に同窓生や恩師、遺族らが都城農業高校グラウンドの西北一角に慰霊碑を建立。現在も被爆者の鎮魂を祈り続けています。