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広報都城で連載中の「ぼんちくんと歴史探検」。ホームページではちょっと詳しく解説します。
今回は「都城大空襲(くうしゅう)」のお話です。
1945年(昭和20年)8月6日のお昼から夕方にかけてです。また、この日は広島に原子爆弾(げんしばくだん)がおとされた日です。
空襲とは空から地上を攻撃(こうげき)することです。飛行機から爆弾(ばくだん)を落としたり、機関銃(きかんじゅう)で建物や人をうったりします。
この日の空襲は市街地西部の焼夷弾(しょういだん・火事をおこす爆弾)や機関銃による攻撃からはじまり、市街地東部や庄内町への空襲、消火をしている人々を機関銃でねらいうちにするなど、4時間にわたり攻撃がくりかえされました。
(写真左・消火活動をする人々/民家に残された弾(たま)のあとと薬きょう)
当時、日本はアメリカなどと戦争をしていました。アメリカは日本への攻撃のひとつとして空襲をおこないました。最初は軍隊の基地や飛行場、工場などを空襲の目標としていましたが、1945年3月からは人がたくさんすむ「まち」も空襲するようになりました。
都城は人口13万人(1940年)とやや大きなまちであり、飛行場や飛行機の工場があったほか、軍隊の基地もあったため、標的となったと考えられます。
松元町、八幡町、牟田町、宮丸町、姫城町、大王町、上町、中町、前田町、平江町、小松原町、庄内町などが被害をうけました。この空襲で亡くなった方は56名、家を焼かれたりして被害を受けた人は17000人以上にのぼるといわれています。
(写真上・空襲被害の地図(赤い部分)/8月9日の都城(長崎大学全炳徳研究室提供))
1945年3月18日にあった都城西飛行場への攻撃から始まり、15回以上の空襲があり、都城がうけたすべての空襲で101人が亡くなっています。
次の本に戦争のことや空襲のことがくわしく書かれています。