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ぼんちくんと歴史探検 「都城大空襲」

記事ID:1703 更新日:2020年5月1日更新

 広報都城で連載中の「ぼんちくんと歴史探検」。ホームページではちょっと詳しく解説します。
今回は「都城大空襲(くうしゅう)」のお話です。

都城大空襲ってなんだろう

いつあったのかな?

1945年(昭和20年)8月6日のお昼から夕方にかけてです。また、この日は広島に原子爆弾(げんしばくだん)がおとされた日です。

なにがあったのかな?

空襲とは空から地上を攻撃(こうげき)することです。飛行機から爆弾(ばくだん)を落としたり、機関銃(きかんじゅう)で建物や人をうったりします。

この日の空襲は市街地西部の焼夷弾(しょういだん・火事をおこす爆弾)や機関銃による攻撃からはじまり、市街地東部や庄内町への空襲、消火をしている人々を機関銃でねらいうちにするなど、4時間にわたり攻撃がくりかえされました。

(写真左・消火活動をする人々/民家に残された弾(たま)のあとと薬きょう)

消火 弾痕

なぜ空襲されたのかな?

当時、日本はアメリカなどと戦争をしていました。アメリカは日本への攻撃のひとつとして空襲をおこないました。最初は軍隊の基地や飛行場、工場などを空襲の目標としていましたが、1945年3月からは人がたくさんすむ「まち」も空襲するようになりました。

都城は人口13万人(1940年)とやや大きなまちであり、飛行場や飛行機の工場があったほか、軍隊の基地もあったため、標的となったと考えられます。

どこにばくだんがおとされたの?

松元町、八幡町、牟田町、宮丸町、姫城町、大王町、上町、中町、前田町、平江町、小松原町、庄内町などが被害をうけました。この空襲で亡くなった方は56名、家を焼かれたりして被害を受けた人は17000人以上にのぼるといわれています。

(写真上・空襲被害の地図(赤い部分)/8月9日の都城(長崎大学全炳徳研究室提供))

地図 空中写真

都城ではほかにも空襲があったのかな?

1945年3月18日にあった都城西飛行場への攻撃から始まり、15回以上の空襲があり、都城がうけたすべての空襲で101人が亡くなっています。

慰霊碑

都城の空襲について調べるには

次の本に戦争のことや空襲のことがくわしく書かれています。

  • 「都城市史 通史編 近現代」都城市2006
  • 「都城の歴史と人物(増補改訂版)」都城市教育委員会2012
  • 戦後50年 私の戦争体験談「道」都城市1996
  • 「都城空襲誌:遺族会15年の歩み」都城空襲犠牲者遺族会2013
  • 「宮崎県史 通史編 近現代2」宮崎県2000

ポスター


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