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広報都城で連載中の「ぼんちくんと歴史探訪」(令和2年7月号)。ホームページでは、少しくわしく解説します。
今回は「都城市」の名前のもとになった場所「都嶋(みやこじま)」のお話です。
都城歴史資料館から西へ少し下ったところにあります。日豊本線の線路のすぐ脇にあたります。
杉木立の中にあり、直径約10m、高さ約3mの丸い塚となっています。周りは石の柵(さく)で囲まれ、一番上には「都嶋御舊跡(みやこじまごきゅうせき)」と書かれた記念碑が建てられています。
室町時代から江戸時代の初め頃まで、このあたりには「都城」というお城が築かれていました。歴史資料館のある本丸から、日豊本線・鷹尾踏み切り近くの大きな空堀(外堀)まで、約20万平方メートル、東京ドーム6個分ほどの大きさがありました。都城盆地で最も大きく重要なお城の一つです。
北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)2代目の北郷義久(ほんごうよしひさ)によってつくられたと伝えられ、伊集院(いじゅういん)氏がいた一時期を除き、基本的には北郷氏の居城(きょじょう)として使われました。
今でもお城に関するさまざまな遺跡が良好な状態で残っています。(写真左:竹之下都城御城図(都城島津伝承館蔵/写真右:本丸跡の発掘調査のようす)
江戸時代に描かれた古絵図「竹之下都城御城図(たけのしたみやこのじょうおしろず)」(都城島津伝承館蔵・下図)では、樹木が茂る塚として描かれています。また、絵図からは本丸などが並ぶ城の中枢への出入り口にあたる重要な場所に位置していることも見て取れます。
江戸時代の終わり頃に編さんされた地誌「庄内地理志」には次のように記されています。
・神武天皇の御所の跡につくられた塚であること。
・お城が最初につくられた時の大手(正面の出入り口)であったこと
・お城が一番大きくなった最終段階では、お城の中心にあたること。
・都嶋から都城の名が生まれたこと。
これらのことから、お城にとって「都嶋」は、防御的・精神的に重要な場所であったと考えられます。
「都嶋」から生まれた「都城」の名は、最初は城名としてだけ使われていましたが、戦国時代の終わり頃には、お城とその周辺の地域を指すようになっていきました。江戸時代に入ると、だんだんと「都城島津氏」が治める領内のことを示すようになったと考えられています。そして、地域の名前として定着した「都城」は、明治時代になると、1871年(明治4年)の「都城県」、1889年(明治22年)の「都城町」など、行政区の名前として使われます。そして、1924年(大正13年)4月1日には、今に続く「都城市」が誕生しました。
私たちが暮らす「都城市」の名前は、この杉木立に囲まれた小さな塚「都嶋」から始まったと言えるでしょう。