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広報都城で連載中の「ぼんちくんと歴史探検」。ホームページではちょっとくわしく解説します。
今回のテーマは「大覚寺尊宥義昭僧正願文(だいかくじそんゆうぎしょうそうじょうがんもん)」。室町幕府の将軍の座をめぐる争いのお話です。
今から600ほど前、正長元年(1428)から嘉吉元年(1441)にかけて起こった事件です。室町時代の中頃にあたります。
日向国に隠れていた足利義昭(あしかがぎしょう)という室町幕府の大物が、島津氏らに攻められて自害した事件です。
室町幕府6代目の将軍を決めた「くじ引き」ではずれた人物です。
正長元年(1428)、次の将軍が決まらないうちに将軍義持(よしもち)が亡くなりました。そのため、次の将軍を義円(ぎえん)、義昭(ぎしょう)、永隆(えいりゅう)、義承(ぎしょう)から「くじ」で決めることになり、義円が6代将軍義教(よしのり)に決まりました。
将軍になった義教は有力な大名を弾圧(だんあつ)したりして独裁的(どくさいてき)な政治を行ないました。そのため世の人々から「恐怖(きょうふ)の世」と恐(おそ)れられていました。義教のふるまいに危険を感じたため、義昭は京から逃げ出したと考えられています。
京をぬけ出した義昭は地方の有力者をたより、あちこちを転々としたのち、永享11年(1439)には日向国まで下り、都城の鬼束氏(おにづか)の所に隠れていたと考えられています。
自分と敵対(てきたい)する人と義昭が一緒になることを恐れた義教が、各地の人々に義昭を見つけるように指令を出したためです。
永享12年(1440)には串間市の野辺氏の所いることがわかり、嘉吉元年(1441)に島津氏らは義昭が隠れていた永徳寺(えいとくじ)を攻めます。義昭は自害し、一緒にいた鬼束源澄(おにつかげんちょう)も自害しました。
写真は「王面(サイト内のページへリンク)」と呼ばれる面です。鬼束源澄が死んでから100年目の年、その死を悼(いた)み奉納(ほうのう)されたものと考えられています。
義昭が当時梅北にあった神柱宮に「天下逆乱(てんかぎゃくらん)を鎮(しず)めた暁(あかつき)には社領(しゃりょう)を寄進(きしん)する」と約束した古文書(サイト内のページへリンク)です。これにより義昭が都城に来ていたこと、義教にかわり世の中を治めようと考えていたことがわかります。
(神柱宮があった場所に建つ黒尾神社)
この事件からは、室町時代の都城にいた有力者たちが、地方の有力者同士だけで争うのではなく、都の将軍家などとつながりをもち、それを利用して勢力を延ばそうとしていたことが良くわかります。
また、この事件で将軍義教と強いつながりをもった島津忠国は内部の勢力争いをおさえ、南九州の一大勢力へと発展していきます。島津氏が室町幕府とかかわりをもつきっかけとなった点も事件の大きな側面といえるでしょう。