本文
明治4年(1871)の廃藩置県によって、都城は鹿児島県となりました。
この年の11月、改置府県により大隅半島・宮崎県南部域を県域とする「都城県」(都城県印章)が設置され、県庁が都城郷下長飯村におかれました。
しかし、都城県は明治6年(1873)に廃止となり、都城は宮崎県へ含まれることとなりました。
その後、明治9年(1876)の宮崎県の鹿児島県への併合に伴い、都城は鹿児島県となっていましたが、明治16年(1883)の「宮崎県」再置によって宮崎県となり、現在に至ります。
明治10年(1877)の西南戦争には、都城市域からは西郷軍として約2300名(西南戦争招魂塚)政府軍として約30人が参戦しました。
都城での戦いは、7月17日から22日にかけての高原・高崎方面の戦闘から始まります。田原坂以来の激戦といわれるこの戦いに消耗していた西郷軍は、24日の政府軍の一斉攻撃に対応できず、武器なども残したまま敗走します。西郷軍が去ったあと政府軍は都城へと進み、翌25日には山之口を占領しました。
明治41年(1908)より陸軍連隊(旧陸軍連隊本部跡)が置かれ、軍とのつながりが強かった都城ですが、太平洋戦争末期には特攻基地が設けられ特攻機が飛び立って行きました。また、市街地も空襲により大きな被害を受けました(都城と戦争)
明治22年(1889)の市町村合併により北諸県郡には「都城町・沖水村・五十市村・志和池村・庄内村・中郷村・山之口村・高城村・山田村・高崎村・三股村」の1町10村が生まれました。これが今に続く都城の各地域の大枠となっています。また、明治24年(1891)には庄内村より西岳村が独立し1町11村となりました。
これらの町や村は、それぞれが市・町へと発展しながら、「都城町(市)」を中心とした合併を繰り返し、現在の「都城市」へと発展してきました。
五十市村・沖水村が都城市と合併
庄内村・西岳村が合併し荘内村
志和池村が都城市と合併
荘内町が都城市と合併
中郷村が都城市と合併
都城市・山之口町・高城町・山田町・高崎町の合併