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令和6年6月24日(月曜日)、文化審議会が郡元西原遺跡(こおりもとにしばるいせき)を国史跡大島畠田遺跡(おおしまはたけだいせき)に追加指定し、史跡の名前を「大島畠田遺跡 附(つけたり) 郡元西原遺跡」とするよう、文部科学省に答申しました。
令和6年10月11日(金曜日)、文部科学省告示第百四十四号にて郡元西原遺跡を大島畠田遺跡に追加指定するとこが告示されました。
官報告示(号外第238号)<外部リンク>
国指定文化財とは、日本にたくさん残る歴史・文化遺産の中で、重要なものとして国が指定した文化財を指します。その種類には、国宝,重要文化財,史跡,名勝,天然記念物などがあります。
くわしくはこちら(文化庁ホームページ)<外部リンク>
文化財の候補を調査したあと、文部科学大臣が文化審議会に諮問(しもん・意見をもとめること)をします。文化審議会は、その価値について審議(しんぎ・問題がないか、価値にふさわしいかなどを話し合うこと)し、文部科学大臣に答申(とうしん・答えをだすこと)をします。文部科学大臣は答申を受けて、文化財を指定します。
くわしくはこちら(文化庁ホームページ)<外部リンク>
附指定ともよばれます。本体の文化財に深い関係があり、本体の価値をおぎなったり、価値をさらに高める文化財を、文化財本体とともに指定する方法です。
大島畠田遺跡は、平安時代の前半から中ごろの地方有力者(富豪・ふごう)の屋敷(やしき)の跡です。最も栄えた時期は9世紀後半から10世紀前半と考えられています。
屋敷の範囲は東西約70メートル、南北80メートル以上もあり、門や溝、柵、くぼ地などで区切られています。その中には大きな掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)がつくられており、その大きさは約297平方メートルに及びます。また、中島をもつ池状の遺構や複数の掘立柱建物跡も見られます。
遺物は地元の土師器(はじき)をはじめ、大量の輸入された陶磁器、国産の陶磁器、石製の銙具(かぐ・ベルトのかざり)など多種多様な出土品がみつかっています。
とてつもない富を手に入れた地方有力者の豊かな生活や文化を物語る遺跡であり、このような遺跡は全国的にも珍しく、平成14年(2002)に国指定史跡となりました。
写真左:大島畠田遺跡・空撮/右:大型掘立柱建物跡
平安時代の終わりごろにつくられた、約50メートル四方の溝で囲まれた有力者の屋敷の跡です。西側と南側は大型の溝、東側と北側は小型の溝で区切られており、区画の中には掘立柱建物跡などが確認されました。大型の溝は最大幅6メートル、深さ1.8メートルもあり、この大きさからは防御的な役割も考えられます。
遺物は少なかったのですが、高級な白磁瓶なども出土しています。
また市による郡元・早水地域の発掘調査結果から、このあたり一帯では平安時代の終わりごろから耕地の開発が進み始めたことがわかってきています。郡元西原遺跡はこの地域の遺跡の中でも最も古い遺跡の一つであり、その規模と構造が他にないものであることから、開発が始まった頃の拠点であったと考えられています。
また、郡元西原遺跡が造られた時代は、都城盆地に生まれた島津荘が大きくなっていく時期にあたり、島津荘の現地経営に係る遺跡であった可能性も考えられています。
写真左:郡元西原遺跡・大型溝状遺構/大型溝状遺構の土層
今から約千年前。平安時代は大河ドラマにも描かれる紫式部などが活躍し、はなやかな文化が花開いた時代です。その一方、地方で生まれた新しい有力者たちが武士団へと成長し、天皇や貴族が中心の古代から、武士の世である中世へと、世の中が大きく変わっていく時代でもあります。
大島畠田遺跡は平安時代の前半から中頃、地方に新たに生まれた有力者の屋敷の跡と考えられます。郡元西原遺跡は、大きな溝に囲まれた館の跡であり、武士の館の始まりの可能性もあります。この二つの遺跡は、日本列島の南にあって、古代から中世へと移り変わっていく様子を具体的に示す遺跡であり、全国的にも貴重な遺跡といえます。
写真左:大島畠田遺跡・想像図/武士の棟梁(画:早川和子)
大島畠田遺跡は歴史公園となっていて、見学できます。
郡元西原遺跡は現在埋め戻されており、見ることができません。令和6年7月20日から、都城歴史資料館企画展「大島畠田遺跡と郡元西原遺跡」を開催します。解説パネルや出土品などから遺跡の内容をわかりやすく解説します。
都城歴史資料館企画展「大島畠田遺跡と郡元西原遺跡」(市ホームページ)
歴史シンポジウム「大島畠田遺跡と郡元西原遺跡」(令和6年10月11日・土曜日)(市ホームページ)
写真:大島畠田遺跡歴史公園