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都城の歴史と文化財 江戸時代

記事ID:3795 更新日:2019年10月29日更新

近世都城の展開

江戸時代の都城

江戸時代の都城は、藩直轄領(山之口・高城・高崎)と都城島津氏(都城など)の私領とにわかれていました。

都城島津氏領は藩主に次ぐ約4万石の禄高(ろくだか)をもち、本藩同様の職制機構など、一定の自立性をもっていました。その結果が独自の地誌「庄内地理志」(都城島津家伝来資料)の編さんや大土木事業である「観音瀬の開削」(観音瀬水路)に表れています。

また、幕末の本藩直轄領では藩財政改革の一環として作られた寒天工場が操業していました。

領主館と町

元和(げんな)元年(1615)の一国一城令により都城が廃城となった後は、現在の市役所周辺に統治機関である領主館(都城領主館跡)がつくられました。そして、領主館を中心に町が形成されていきましたが、その町のなかには大陸から渡った人々が住んだ唐人町もありました(参考:中央東部地区遺跡群媽祖像何欽吉の墓など)。

そのほか、本藩直轄領の高城などにも人の集まる町場が形成され、幕末には材木業や海運業などで財をなした大きな商家も育ってきています。(参考:船印旗幟「稲福丸」船方諸用控帳旧後藤家商家など)

農村の発展

都城領では領内を11に分け、それぞれに地頭をおいた「五口六外城」と呼ばれる支配体制が整備されていました。村の役人は本藩領と同様に武士身分の人々が担っていました(参考:楠見家の門と土蔵)。江戸時代も中頃を過ぎると、川やため池などから長い用水を整備した新田開発(参考:関之尾用水大五郎用水定満池水神碑など)が行われ農業生産が向上すると共に、都城茶(参考:池田貞記墓)など特産品も生まれてきました。

祈りと芸能

江戸時代、薩摩藩では一向宗(浄土真宗)が禁止されていました。迫害を受けた門徒の人々は山中の洞穴などに隠れ信仰を続けたと伝えられています。これらの洞穴は「かくれ念仏洞」とよばれ、市内にもいくつか残されています(参考:都城のかくれ念仏)。

また、都城には薩摩藩内に多くみられる「田の神像」(都城の田の神)も数多く残るほか、四季折々の作事と関係する芸能(春日神社のベブどん正応寺の大太鼓踊り今屋の大太鼓踊り・有水鉦踊り(ありみずかねおどり)穂満坊三月十日踊りあげ馬など)も多く伝えられています。

そのほか、参勤交代に参加した人々が京・大阪から持ち帰ったといわれる人形浄瑠璃(山之口麓文弥節人形浄瑠璃(やまのくちふもとぶんやぶしにんぎょうじょうるり)/国指定重要文化財)も残されています。

 


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